映画という芸術
太宰治を小栗旬、『斜陽』のモデルとなった愛人の静子を沢尻エリカが演じている。本妻は宮沢りえ、一緒に入水自殺を図ったもう一人の愛人は二階堂ふみ。
そして監督は
ヘルタースケルターと同様、蜷川実花。蜷川監督の色彩感覚、雰囲気は唯一無二。映画を観てすぐに「この人だ」とわかる監督というのもなかなかいない。
佐藤嘉洋ランキングを主宰している私も、女優に関してはまだ門外漢。二階堂ふみの魅力に今まで気づかずにいた。よくもまあこんな個性的な美女を3人も集めて自然に溶け込ませたものだ。蜷川監督による
映画という芸術を見た気がする。
プロってすごいなあ!
ヘルタースケルターの感想文でも書いたけれど、役者に常識を求めたって仕方がない。狂気があるから魅力的なのだ。
自分にはできないことをして凋落していく人たちを見て楽しんだり、悲しんだフリをして自分に酔っている私たちもまた、法的には問題がないだけで人間的には同罪か、あるいはもっと罪深いのではないだろうか。

太宰治のような生粋のダメ男(不倫・クスリ・自殺)の作品が小学校の国語の教科書に載っていることに、どうでもいい他人のスキャンダルに怒り狂っている連中はどう感じているのか。
時間の問題なのだろうか。いわんや死ねば罪は償われるとでも思っているのだろうか。だとしたら、私はそれを
精神的な殺人と呼ぶ。ミスした人間を寄ってたかって叩く連中も殺人犯と大して変わらない。
「生き切る」ということ
太宰治の生き方は刹那的だ。キックボクシングで散々身体を痛めつけてきた私が言うのも何だが、自分の身体をまったく大切にしていない。
「今を生きる」という姿勢も、見方を変えたら危険な方向へ行きかねない。私は残り限られた今日を、そして人生を、どう生き切って行こうか。どう楽しんで行こうか。毎日そんなことばかり考えている。
私の中の「生き切る」ということは、「死ぬまで一分一秒休まずに行動しまくれ」ということではない。「他人の命とは違って自分の命だけは永遠に続くかもしれない」という錯覚をしたままダラダラするのではなく、「自分の命もいつか必ず尽きる」という認識をなるべく持った上で、徹底的にダラダラするのである。
ちなみに今の私は出張先のホテルで一人、ダラダラとこの文章を書いている。今日はzoom会議1件以外、何の予定もない。チェックアウトはコロナ禍のサービスで19時まで。さっさと名古屋に帰ればいいのに家庭をかえりみない私もまた、太宰治同様、人間失格である。
明るく生こまい
佐藤嘉洋
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