映画館でプリンセス編を観に行き、面白かったので前作にあたるロマンス編を自宅で視聴。
そのため、「プリンセス編〜ロマンス編」という公開順としては逆の表記とさせてもらった。
いろいろと細かいところでストーリーも繋がっていて心憎い演出。
『佐藤嘉洋のトロくさい話』でも一話完結で展開しながら、大きな視野で見た場合にはいろいろと繋げている。
自分の作品作りのヒントにもなった。
とりあえず伏線はいろいろと張っておけばいい。
「まあいつか回収すればいいさ」
くらいの気軽な気持ちで。
三浦春馬の顔とチンコがあれば
さて、本題である。
一緒に観に行った小五の息子が、出演していた三浦春馬を見て、
「俺に三浦春馬の顔とチンコがあれば幸せなのになあ、ねえお父さん」
という言葉を残した。
チンコの使い方を知っているのか知っていないのかわからないけれど……。
「そうだね、お前ならきっと幸せなチンコにできるだろうね」
と答えたら、今月で一番冷たい視線を妻からいただきました。
どうもありがとうございます。
SNSの誹謗中傷に関して
SNSによって、TVスターも一般人も、良いのか悪いのか同じステージに立つことができるようになった。
多くの一般人は、日本においては善良な人たちである。
しかし、一部の人間は、SNSがなければ手の届くことのない人間を攻撃することで存在意義を見出そうとする。
そういった多くの人は、身分を明かし、面と向かっては何も言うことのできない弱い人たちが大多数である。
居酒屋の席で何を言おうと勝手だ。
そこで吐いた暴言や悪口によって、その場は盛り上がり、スッとする機会もあるだろう。
私はそれでいいと思う。
配慮を必要としない場は、気を使わなくてもいいからストレス解消になる。
「わざわざ本人に向けて直接言う必要がない」ということだけなのである。
エゴサーチして勝手に傷つくのは、それはエゴサした本人にも責任がある。
しかし、余計なことを本人が直接目にするようなところでは、書かない方が結果的には身のためだ。
自分では手の届かないところにいると思い込んでいる人たちは、芸能人や有名人である前に、自分と同じ人間なのだと認識してほしい。
彼らをうらやましくて攻撃しているのなら、そのエネルギーを自己研鑽に向けたらいいのに、と思う。
しかし、それができないから、このような他人を誹謗中傷するような人物になってしまったのだろう。
会社で理不尽な思いをして、それを乗り越えられないまま、卑屈な人間になってしまったのだろうか。
一生分の勇気を出して恋愛を成就させようとしたら見事にフラれ、もう誰も信じられなくなってしまったのだろうか。
一言だけ言わせてもらえれば、なんて傲慢な人間性なのだろうと憤りを覚える。
まったく謙虚さがない。
自分の実力を買いかぶり過ぎである。
そういった挫折に負けず、謙虚な気持ちを持って、ちょっとずつでもいいから自分を磨いていれば、前よりも成長した自分を見せられたはずだ。
そうすれば、思わぬ仕事が舞い込んできたり、高嶺の花の女性を口説き落とせたりする機会に恵まれる可能性は、今より高くなるはずだ。
私は可能性の話をしている。
0か100かを求めるから、うまくいかなかったときに絶望し、卑屈になってしまうのだ。
まったくもって勿体ない話である。
せっかくこの世に生かされているのに、である。
私は0.00001%でも良いことの起こる可能性が高くなる振舞いをして生きていきたい。
そしてそれを雨の日も風の日も長年心がけていたら、徐々に縁と縁とが繋がり、気分的にはとても楽に生きられるようになってきたのである。
明るく生こまい
佐藤嘉洋