JKFの由来とキッカケ


JKF会員の皆さん、こんにちは。
マネジャーの佐藤嘉洋です。

令和初の夏ももう終わりそうですね。
昨年のうんざりするような暑さが長く続くことはありませんでした。
まあこのくらいの暑さだったら許せるかな、くらいの夏でよかったです。
上の写真は、K-1大阪大会でK-1名古屋大会のPRをしてきたときのもの。
チケット絶賛販売中です。

さて、今月はJKFの由来やキッカケについてお話します。

JKFの由来

JKFはキックボクシングに特化したフィットネスジムです。
もともとは、私のキックボクシング唯一の師である小森次郎会長の名古屋JKファクトリーのJK(ジロウコモリ)を取り、2011年に名古屋の新瑞橋で名古屋JKフィットネスとして産声をあげました。

そして2年程前にふと思いつきました。

「ジャパンキックボクシングフィットネスの略としても使えるじゃないか!」

プロキックボクサーとして現役を引退し、師の元から離れた今、根底には師へのリスペクトを込めつつも、これからは佐藤嘉洋独自の理論を用いて、フィットネスに観点を置いたキックボクシングを展開していきたいという気持ちでなんとなく名称を変更しました。

その辺りの気持ちは『守破離返』のコラムをご参考ください。

現在、新瑞橋にあるJKFは、名古屋JKFという名称になります。
これは北区にある名古屋JKファクトリーの略称と一緒で混同される方もいらっしゃるかと思います。
どこかのタイミングで『JKF新瑞橋』に名称を変更したいと考えております。
そうなると看板も変えなきゃいけないし、100万円弱の費用がかかるのでちょっとまだ及び腰ですけども。
だから現在はなるべくファクトリーにも迷惑のかからないように、名古屋JKF(新瑞橋)と表記するようにしています。

地獄の練習を積み重ねた

2008年のブアカーオ戦での勝利、魔裟斗戦での激闘が評価され、2009年はK-1MAXの優勝候補、日本人エースとして期待され、世界トーナメントに臨みました。
が、1回戦でまさかの敗北。

「もう俺の人生は終わりだ」と思うくらいに落ち込みました。
毎日毎日ネットで誹謗中傷を受けました。
傷ついた者にさらに塩を塗り込んでくるなかなか酷い仕打ちであります。
しかし私は「ただじゃ終わらねえぞ。絶対に這い上がってやる!」と奮起し、覚悟を決めました。
会長が「やれ」といったメニューをすべて「はい」とやりました。
「無理です」「やりたくない」「厳しいです」などという口答えは一言も発しませんでした。

ちなみにその時の練習のメニューはこんな感じです。
まさに地獄のような練習を積み重ねたのです。
JKFの会員さまはプロではないので、決して真似しないでくださいね。

ストレッチ15分

ウェイトトレーニング

ベンチプレス70kg10回3セット・レッグランジ25kg左右10回3セット・10kgの重りをつけた懸垂10回3セットを日替わりで

ランニング5km

シャドーボクシング5R

サンドバッグ2R

ミット7R

スパー9R(3人✖️3R)

サンドバッグ5R

シャドーボクシング2R

懸垂50回、腹筋各種10分

そしてなんとそのあとに

ランニング5km!!

ストレッチ20分

もう最後の方は訳がわかりません。トランス状態です。

もちろん、私は練習量がすべてだとは思いません。
しかしながら、量をこなさないと鍛えられない筋肉や精神も間違いなくあると考えております(質を重視しないと鍛えられない筋肉や精神もありますけどね)。

次は必ず結果を出す!

という覚悟と執念の塊だったのです。
そんな惨めな敗戦の後に用意された相手は、超強豪のユーリ・メス。
なぜこうも強者とばかり当てられる選手生活だったのか。
はい、私が悪いんです。

「次の試合は○○とどう?」

と主催者から打診されると、

「わかりました」

と二つ返事で受けてしまうからです。
引退するまで主催者から言われた相手は絶対に断らない、というマイルールを勝手に作っていました。
だから自己責任ですね! 仕方ありませんね!
でも、これでいいんです。
私は、自分自身に対してカッコいい生き方をしたいのです。
私はほとんど逃げずに自分自身と戦ってきたという自負があります。
だから自分のことが大好きです。
だから辛いことも続けられます。

この前の試合も延長戦にもつれ込み、過呼吸に陥った状態で戦い抜いたものの無残な判定負け。
そしてなんと神からの試練か、ユーリ・メス戦も延長にもつれ込みます。
しかし私は積み重ねた練習の覚悟と自信、その中から編み出した呼吸法を駆使して、薄氷の勝利ではありましたが、ギリギリのところで勝利を掴み取ることができました。
本当にギリギリのところだったのですが、勝利と敗北の境界線では天と地ほどの差があります。
いや、天国と地獄との差ですね。
どれだけ肉薄していても、負けてしまえば元も子もないのです。
生死を賭けた本当の勝負であれば、「死」を意味するわけですから。

辛くも生き残ったときのインタビューです。
右目のまぶたをカットしています。
縫うときはめちゃくちゃ怖かったです。
また、右目の黒目を出血してしまったので、変な潤み方をしていますね。
次の日は、傷ついた黒目には太陽がまぶし過ぎて目を開けてられませんでした。
ちなみにユーリ・メスは、私とのこの試合で引退しました。


今では素晴らしい戦友です。
2018年9月にセコンドとして来日したときの写真です。
キックボクシングは素晴らしいスポーツなんです。

JKF誕生のキッカケ

現役時代、試合後は通常3日間の休みが与えられ、4日目から練習が再開されます。
もちろん、怪我もありますのでキツイ練習は行いません。
軽く身体を動かす程度です。
縄跳び2Rとシャドー3Rだけで帰ることもありました。
2週間程度かけて、サンドバッグやミットを本気で打てるように練習量を戻していきます。
その間の帰り道の夜空は、いつもよりもなぜだか綺麗に見えました。
よしんば雨が降っていても「まあ雨もいいよね」と気分良く帰りました。

なんだかとっても爽快な気分になる。

疲れ切ってもいないので、そのあと遊びに行く体力もあります。
頭もスッキリしているので読書や勉強もはかどります。

2009年に地獄の練習を積み重ねていたランニングの途中、名城公園を走っている最中にふとひらめきました。

ん? 待てよ。

この期間の部分だけを切り取って一般層に提供したら、ものすごくウケるのではないか。
それからというもの、ランニングの最中にキックボクシングに特化したフィットネスジムの妄想を幾度も幾度も積み重ね、2011年7月についにJKF新瑞橋(さっそく使ってみます)が形となったのです。

一昔前のキックボクシングジムは、選手育成を兼ねたジムがほとんどでした。
今でこそキックボクシングフィットネスは、新田明臣さんの主宰するバンゲリングベイや戸井田カツヤさんのファイトフィットなどを筆頭に東京を中心として広まりつつあります。
しかし2011年頃はまだまだ世間はもちろん業界にも浸透しておらず、自分としては大変な賭けでした。
そして私の妄想を重ねた事業計画書に賛同してくれた株主も見つかり、

これは絶対に成功させねば

と決意したことが昨日のことのようです。

「自分のために」動くのは当然のこと、「誰かのために」動くと人は思いもよらぬ力を発揮します。
つまり働くとは、人のために動くことなのではないでしょうか。

JKFは会員の皆さんのために、少しでも健康に、楽しく、明るく人生を過ごしていただくキッカケになれたらと本気で願っております。
今後とも、なにとぞ、よろしくお願いいたします。

明るく生こまい
佐藤嘉洋

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